石川啄木一族の墓

石川啄木一族の墓

立待岬に向かう途中、石川啄木一族の墓があります。
「函館で死にたい」と言っていた啄木の遺志を受け継ぎ、夫人がこの場所に一族の遺骨を移しました。
石川啄木は、明治40年5月5日から9月13日の合計132日間を函館で過ごしました。
啄木21歳の時です。

1907年5月5日、函館に移り松岡蕗堂に下宿を開始。
妻と子どもは盛岡の妻の実家、妹は小樽駅長の義兄に託しての新生活だったそうです。
5月11日から5月末日まで函館商工会議所の臨時雇い。
6月には吉野白村の口利きで、函館区立弥生尋常小学校の代用教員となります。
その頃に橘智恵子、宮崎郁雨と知り合い、以後死去前年まで交友を持つこととなります。
8月には代用教員のまま函館日日新聞社の遊軍記者になりますが、
8月25日の函館大火により勤務先の小学校・新聞社がともに焼失し、函館を離れました。

東海の 小島の磯の 白砂に
われ泣きぬれて 蟹とたはむる

墓には”一握の砂”の巻頭の歌が刻まれています。